1
「アンナ殿」
阿弥陀丸は縁側に浴衣姿のアンナを見た。
もう夜も更けているのというのに。
所在無い様子で月を見つめている。
阿弥陀丸は遠慮勝ちに声をかける。
「アンナ殿、どうしたでござるか」
いつもの通りの仏頂面が振りむいた。
「なんだか元気がないでござる」
「そうかしら」
普通の人間は気づかないかもしれないが、ここ数日彼女の生気が薄い。
まるで彼岸の住人のようだ。
「葉殿が心配するでござるよ」
「あたしの心配じゃないのね」
筆で書いたような眉が寄せられる。
そうすると、整った顔は心底意地が悪そうに見える。
だが、阿弥陀丸はこの顔を見慣れている。
「あんたは葉ばっかりね」
「それは、拙者の役目でござるゆえ」
アンナは少し押し黙った。
「そうね。あんたが元気付けてくれる」
思いもかけないことを言われて、阿弥陀丸は面食らう。
「いやかしら」
「そんなことはござらん」
「じゃあ、ついてきて」
アンナはくるりと背を向けて歩き始める。
なんだか変な感じだと思いながらも、阿弥陀丸はおとなしく後にしたがった。
2
ひとつ屋根の下に暮らしていてもアンナの私室に入るのは初めてだった。
葉の部屋と同じ間取りだが、雰囲気が違う。
とても年頃の娘が住む部屋には見えない。
飾り気はひとつもなく、代わりに部屋のあちこちになにやらあやしげなお札が張ってある。
神棚には花と酒が入っているらしい器、それに餅まで供えられており、
部屋の主がアンナだけにいつでも呪術が使えそうだ。
なんだかいやな予感がする。
「アンナ殿、なにしてるのでござるか」
「見てわからないの。布団を敷いてるのよ」
しかも、寝具は二組であるように見える。
いやな予感がさらに強まった。
「なにをするのでござるか」
アンナはそれには答えず、手際良く敷き終わるとその上に正座した。
そしてまっすぐな視線を向けてくる。
「いらっしゃい」
いやな予感は頂点に達した。
「なにをする気でござるか」
「あたしのものにしてあげるわ」
阿弥陀丸は耳を疑った。
あきれたようにアンナの声が上がる。
「なに間抜け面してるの」
「アンナ殿、すまぬがもう一度」
「あたしのものにしてあげるって言ってるの」
一言一句よどみがない。
何を言っても惚れ惚れするほど自信に満ちている。
「冗談でござろう」
「冗談じゃないわよ。あんた、葉なんかにはもったいないって思ってたのよ」
阿弥陀丸は二の句がつげなかった。
悪い夢を見ているのだろうか。それにしてもひどすぎる。
こんなことはありえない。
「あ、アンナ殿」
気がつくとアンナは浴衣の帯に手をかけていた。
するりと結び目を解く。
止める間もなく、アンナのからだから浴衣がすべり落ちた。
どう反応して良いかわからない気の毒な阿弥陀丸は、ただ口をあけて見ているしかなかった。
アンナはもう下履き一枚の姿になっていた。
細いからだ。
胸はわずかに盛り上がりを見せているが、腰のあたりは痛々しいほど肉が削げ落ちている。
生きている間なら目をそらしもしただろうが。
いや、今だってほかの女が相手ならそうするだろうが。
阿弥陀丸はあまり申し訳ないとも思わずについつい上から下まで見てしまった。
しかし、アンナが下履きに手をかけるにいたって、我に返る。
「悪ふざけはよすでござる」
「悪ふざけで乙女がこんなことするのかしら」
いや、アンナならなにをやるかわからない。
内心そう思う。
「あたしは平気よ。あんたとなら」
ああ。
阿弥陀丸は両手で顔を覆った。
とんでもない悪夢だ。いい加減に覚めてくれ。
こんな願望は絶対にない。誓ってもいい。
ああ、アンナが近づいてくる。
一糸纏わぬ姿で。
「来ないでくだされ」
阿弥陀丸はいやいやをするように首を振った。
「だめなやつね」
アンナのため息とともに阿弥陀丸のからだが宙に浮いた。
そして布団の上に落ちる。
あっという間のことだった。
見上げると、
普段は幾重にもまかれている数珠がアンナの手によって広げられ、奇妙な形を作っていた。
アンナお得意の数珠攻撃が炸裂したらしい。
拒んだところで、霊である以上彼女からは逃れられないだろう。
阿弥陀丸は覚悟を決めるしかなかった。
きつく目を閉じる。両手は祈るように胸の前に合わせる。
アンナが触れてきた。
顔をそむけていると、あごを捉えられ前を向かされた。
口をふさがれる。
やわらかい舌が固く閉じたくちびるを割り、歯列をこじ開けて進入してくる。
アンナの舌が阿弥陀丸の口中を思う存分かき回す。
「ん、ぐっ」
苦しくはないが、異様な感触に頭がしびれた。
そこではじめてあまりの事態に忘れていた異変に気がつく。
なぜ、触れられるのだ。
霊と人間なのに。
「アンナ殿、触ってもいいでござるか」
ようやく口がはなれると、了解を得て彼女の肌に触れてみた。
あたたかい。
こうして触れ合えるなんて、思わなかった。
もう何百年間も、ひとと触れ合うなんて忘れていた。
それがうれしくて、ずっと触れていたいと思ってしまった。
「このからだはどうしたでござるか」
「あんたと同じよ」
なんでもないことのようにアンナが答える。
「これなら霊と触れ合えるの。葉はできないだろうけどね。あたしは優秀だから」
小さな手が、髪を撫でる。
アンナの笑顔はとても魅力的だ。
阿弥陀丸ははじめて気づいた。
アンナにこんなにやさしい顔ができるなんて知らなかった。
さっきまであんなに動揺していたのが嘘のようだ。
今は、こうして彼女に触れられて安心していた。
触れ合ってみてなんとなくわかった。
彼女もまた、葉と同じだ。
すべての魂を受け入れる心を持つひとなのだ。
アンナが腕を絡めてくるので、痩せた背中を抱きしめる。
腕の中にはアンナのあたたかいからだ。
強く抱きしめると折れそうで。
それでも抱きしめずにはいられない。
それは確かに、男である自分がいつくしむべきものなのだ。
生きている間はこうして抱くことも、抱かれることもなかったけど。
「あたしが抱いてあげるわ」
彼女にはわかるのか。
「光栄で、ござるな」
「あたしのものにおなりなさい、阿弥陀丸」
口調は命令。でも、その顔はやさしい。
阿弥陀丸は黙って彼女の目を見つめていた。
返事がないのを了解ととったらしい。
細い指が帯を抜き取る。
もともとたいしたものを身につけていない。
すぐにアンナと同じ姿となった。
ゆっくりと、アンナのからだが覆い被さってくる。
胸が触れ合う。そして脚も。
つい、身を震わす阿弥陀丸を見てアンナは笑った。
二人のからだが合わさった。
アンナのからだに凹凸がないだけに今の二人には紙一枚入る隙間もないだろう。
ふと、阿弥陀丸は顔を上げた。
「アンナ殿」
下肢にアンナの柔肉が触れている。
からだつきのわりにその感触はなまなましい。
アンナは察したらしい。
少し、腰を引く。
「ばかね」
アンナの笑顔は少しだけ恥ずかしそうで、なんだかかわいらしかった。
「生身の人間じゃないんだから、こんな無粋なもん使わなくていいのよ」
そう言いながらアンナは目を閉じる。
花弁のような口が開き、小さな声が漏れる。
聞き取れなかったが、呪文であることは間違いない。
ふたたび、からだが浮き上がるような感覚があった。
いや、そうではない。
背中には布団が、からだの前面にはアンナのからだがぴったりと密着している。
しかしこれはなんだろう。
この、どこかに連れて行かれるような感覚は。
「アンナ殿」
行く先はアンナのからだだった。
アンナのからだに取り込まれていく。
自分のすべてが全開になっている感覚に抵抗はない。
「ああ」
アンナのからだがふるえだす。
耳元で感じる吐息が早くなる。
「熱い」
ひどく上ずった声。
その眉がより、半開きの目は潤んでいる。
明らかな恍惚の表情。
阿弥陀丸は見蕩れた。
なんて綺麗なのだろう。
「来る」
次の瞬間。
なにかが一気に湧き上がった。
それは頭の先からつま先まで駆け抜け、やがて全身に広がった。
熱いような痛いような突き刺さるようななにか。
密着しているアンナも同じ感じ方をじていることがよくわかる。
絶頂感に間違いない。
しかし、こんなものはしらない。
苦しみも痛みもない。純粋な快感だった。
しばらく目を閉じたまま、その満足感に浸っていた。
「気持ち良かったでしょ」
目を開けてみると、アンナの綺麗な笑顔が真上から見下ろしていた。
「霊とひとつになるってこういうことよ」
二人は魂で交わったのだ。
そんなことが可能なのか。
「憑依なんかじゃなく、あんたはあたしとひとつになったの」
憑依合体とは違う。アンナのからだを借りているわけではない。
「あんたはあたしの中に、あたしはあんたの中に」
頬にくちびるが触れる。
「あたしが抱いてあげたのよ」
3
アンナのからだはもう元に戻っている。
いつもと同じ霊と人間。
もう二人は触れ合えない。
「アンナ殿、すまんでござる」
「なんで謝るの」
アンナの声は、いつになくやさしく聞こえる。
うまく言葉が見つからない。
「こんなことになってしまって」
守るべき主の大事な人と快楽を共有してしまったのだ。
自分の生きていた時代だったら死を意味する行為である。
アンナはため息をついた。
「あたしがやったんでしょ。あんたは謝る必要ないの。あたしがしたくてやっただけ」
「でも、アンナ殿は葉殿が好きなのでござろう」
「女は浮気しちゃいけないっての」
「もちろん男もしてはいけないのでござる」
「あんたは固いのね」
そこがいいんだけどね、といわれて阿弥陀丸は少し照れる。
「あ、でもイタコ殿だからこういうのはいいのでござるか」
「あたしは浮気するときは全身でするわ。言い訳なんかしやしない」
実に、彼女らしい。
こんな状況なのに拍手したくなった。
「それに、生身の男とやるよりこっちのほうがずっといいと思うわよ」
「はあ」
さばけているでござるなあ。
自分なら、恋人が知らないところでだれかと気持ち良くなっていたらすごくいやだと思う。
だが、口には出さないことにした。
自分だって浮気の共犯者なのだ。
まあ、彼女がそう言うのならいいのかもしれない。
アンナ殿は元気になったみたいだし。
「そういえばアンナ殿、元気がなかったのはなぜでござるか」
「たいしたことじゃないわ。あんたをいじめたら直ったもの」
「アンナ殿」
アンナは後ろを向いた。
阿弥陀丸は自分がアンナの態度をいとおしく思っていることに気づいた。
今日まではあまり仲良くなりたい相手ではなかったのに。
「ホントにたいしたことじゃないのよ。
あんたが葉ばっかりだから、いじめてやりたくなっただけ」
ぶっきらぼうな答え。
嘘か本気か。多分嘘だろうけど。
きっと後から悩むのだろうけど、今は。
悪い気はしなかった。